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宇宙人的な感覚で世の中を見渡す


by kklig

◇第1話 東北アジア共同体に夢を抱く

017.gif私の生い立ちとアイデンティティ

 私は中国北京から日本に来た中国朝鮮族の1人です。吉林省延辺朝鮮族自治州(1)の延吉県(現在は龍井市)銅佛寺という村で生まれた在中国3世です。亡くなった父の話によると、日露戦争の終わった1905年頃に、疲弊した朝鮮半島での生活が苦しくて咸鏡北道から豆満江を渡って間島(2)に来て、中国東北であちこち流浪したが最終的な定着地を延辺にしたそうです。
 私は、自分が朝鮮人なのか、中国人なのか、それとも日本人なのか、アイデンティティに悩んでいたわけですが、日本に15年間も暮らし定着しそうですので、敢えて「東北アジア人」(3)にしました。私の11歳の息子は日本で生まれ育ったので、自分は日本人だと思いたがります。しかし、朝鮮半島にルーツを持ち中国国籍で、日本人というのもおかしいので、息子は、それだったら「アジア人」でよいと、親との共通項を見つけました。EUなどに見られるように地域共同体が時代の流れであり、そこの人たちがヨーロッパ人としての誇りを持つように、私は「東北アジア人」または「アジア人」として誇りを持っても不思議ではないと思っております。この前、ウィーンの国連工業開発機構(UNIDO)で会議に参加したときに、「I am Northeast Asian(私は東北アジア人です)」と紹介して、東北アジアの未来を熱く語りました。
 本号から、「東北アジア人」の視点から見た東北アジアの現状と未来、政治・経済・社会・文化など、自分の体験を踏まえながら皆さんに語りたいと思います。

 ●日本への旅立ち
 1991年5月の北京空港。生まれて初めて飛行機に乗った私は緊張感に包まれた。これから先どうなるのか、まったく見当がつかない日本での生活を想像しはじめた。北京での優雅な大学教師の職と住み慣れた環境すべてを放棄して、なぜ日本に行くのか自分でもよくわからない。日本に行く夢はかつて持っていたが、それだけではない。とにかく外の世界に行ってみたい、そのためには日本であろうとどこであろうと構わない。
 しかし、私が日本を選択したのはそれなりの縁があったかもしれない…。

 ●農村を脱出
 1970年代の後半、中国で災難のような文化大革命(4)もそろそろ終わり、77年に高校(といっても中学・高校合わせて4年制だけ)を卒業し、そのまま人民公社に戻って農業を営む生産隊(村)の社員となった。身体障害を持つ私にとっては農村の重労働は耐え難いものだった。1958年から始まった大躍進運動(5)に3年間のいわゆる「自然災害」が重なり、国は疲弊し、餓死者が数千万人規模の時代に生まれた私は、栄養不良で小児麻痺後遺症を残したまま育った(現在の北朝鮮の飢餓状況とよく似ている)。
 私にとっては、いかに農村から脱出するかが最大の課題で、そのためには大学に行くしかほかに道がなかった。しかし、78年に文革で10年間廃止されていた大学受験制度が回復したが、受験したいとの願望はあっても、身体障害者の私が大学生になることは、不可能だと勝手に思い込んでいた。
 3歳年上の兄貴はその年に文革後の第1期生で名門の吉林大学に入学した。私は羨ましい一方で、自分は一生、田舎で惨めな人生を送るしかないと考え涙が出た。それでも貧しい農村からまた1人が大学に入り、8人兄弟中6人目(5人は大学や専門学校、1人は軍人)の「出世」となったこともあり、家族そろってお祝いムードだった。末っ子の私と次男の兄貴が両親の面倒を看(み)ながら暮らすことになった。姉貴、兄貴たちがみんな「出世」しているのに、私はどうなるのか不安だった。
 その兄貴が遠くから送ってきたのは日本語読本1冊と手紙。「おまえも受験に挑戦してみたらどうか、大学には身体障害者もいる」と励ましてくれた。希望を見いだした私は、受験を決意し独学をはじめた。田舎で働きながら、受験にチャレンジすることは想像を絶するものであった。1日の肉体労働だけでも疲れるのに、その間に勉強もしなければならない。1冊の日本語教材を毎日持ち歩き、暇があれば読んでいた。周りの仲間からは「李さん、本当に大学生になれるの」と、からかわれた。たまたま村に文革で下放(6)されてきた画家の奥さんが日本人で、その息子が私の同窓生であったので、「私に日本語を教えてください」と恥を知らずに頼んでみたら快諾してくれて、「アイウエオ」から勉強しはじめた。
 4年間で4回の試験にチャレンジし、1981年にやっと北京の中央民族大学に合格した。私にとっても家族や周りの人にとっても、田舎者がいきなり首都北京の大学生になったのだからみんな感無量で、村を挙げての祝福を受け北京行きの列車に乗った。

 ●多民族共生の中国
 学校でも村でも朝鮮語しか喋れなかった私は、北京でいきなり漢語(中国語)での勉強と生活を強いられ、一生懸命だった。小中高では完全に朝鮮語で教育受け、漢語は勉強したものの使いものにならなかった。
 漢語は私にとって外国語同然だった。これは朝鮮族に限るものではない。大学には全国から来た56民族(漢族を含む)の学生がいて、私のクラス50人にも22民族がいたが、その半数以上は漢語がまともにできなかった。それぞれが自分の民族の言語や文化、生活習慣を持っていたので、世界各国から留学生が集まったのと同じだった。中国式大学寮の集団生活で、4年間も同じ部屋で7~8人が一緒に暮らしていたので、いろいろ矛盾や葛藤がなかったわけでもないが、それ以上に多民族が共に暮らす楽しさがあり、他の民族に学ぶことが多く、なによりも重要なのは多民族共生の術を身につけたことである。私は農村で4年間働いたので一番年上の兄貴のような存在で、4年間に渡って班長を務め、みんなから厚い信頼を得ていた。

 ●政治家を目指すが方向転換
 2年間の努力で漢語の弱点を克服でき、中央民族大学の同学年では初めて共産党に入党、そして1号目の共産党大学院(7)進学者となった。当時は共産党の改革・開放政策に強い期待と信頼をかけており、政治家を夢見ていた。しかし、改革・開放といっても曲折は多かった。1987年に当時の胡耀邦(こようほう)総書記が失脚すると、「資本主義自由化」批判が強まり、政治改革や言論自由を求めた進歩的なインテリたちは彷徨(さまよ)うことになった。
 共産党を心から信頼し政治家を目指した私も、自分の進路を方向修正せざるをえなかった。このままで行けば共産党中央に入ることはさほど問題ないが、私にとっては政治家という選択は危険であり間違っていると感じた。また、当時の中国で政治家になるためには、出身が良く(労働者・農民階級出身)、バックグランドがあり、ゴマスリが上手いという3つの条件が必要だと気づいたが、私には「出身が良い」ことしかなかった。加えて、政治家になっても少数民族として先が見えないこともわかり、自由な大学教授になろうと決意し、北京で大学講師として就職、余裕のある4年間を過ごしていた。
 ところが、1989年4月に胡耀邦元総書記の逝去をきっかけに民主化や政治改革を求める学生運動が起こり、世界を震撼した天安門事件(8)にまで発展した。共産党や政府の腐敗にあきれた学生と市民の多数は、民主化運動の支持者であった。若手インテリである私は、学生運動が鎮圧され、その後共産党内の粛正が始まると、自由な大学教員であっても息苦しさを感じ、多くの若者と同じように海外への脱出を夢見るようになった。当時の中国では海外に行くということは決して容易(たやす)いことではなかった。海外の受入先や資金など以外にも、中国政府の厳しい規制があったのである。そのため、規制を受けない妻を先に日本の語学学院に送り込み、その翌年に私も規制が解けやっと同じ語学院に入学できた。2人の来日留学費用を合わせると約百万円以上にのぼり、当時の年収は日本円で換算するとわずか数万円に過ぎなかったから、親戚や友人から借金をして来日するしかなかった。

 ●日本での再修業
 何の資金も背景も持たず裸一貫で日本に来たが、現実は厳しかった。日本語学院に通いながら、アルバイトを探し毎日10時間以上働かなければならない。学費や生活費だけでも重い負担であるのに、借金返済と両親への生活費送金もしなければならない。それでも、自分の未来のために人生の修行だと考えると、何の苦痛も感じず力が涌いてきた。
 中国の学問体系とまったく違う日本では、最初からやり直すしかない。帰国後のことを考えると経済学がもっとも役立つと考え、経済学専攻で大学院に入学し、当時注目されはじめた「豆満江開発と東北アジア経済協力」を研究テーマに選んだ。延辺を故郷とし、朝日中3つの言語にロシア語まで習得した私にとって単に研究テーマで終わるものではなく、夢に満ちた、やり甲斐のある事業であり、自分の生涯をこの事業に捧げようと心を決め、一所懸命に勉強し、また豆満江現地に何回も行って調査を行った。

 ●東北アジア時代がやって来る
 冷戦後、我々が暮らすこの地域に「豆満江開発構想」が生まれ、「東北アジアの共同体」という夢を抱くことができるようになったのは、奇跡的な変化であり、いかに素晴らしいことか。数千年の歴史でこんな時代はあったのだろうか。
 歴史的に東北アジア地域では、中華帝国の秩序が2千年以上断続的に維持されてきた。近代に入っては、西欧列強のアジア侵略により帝国の秩序が崩壊したが、日本が近代化に成功するとともに西欧列強に加わり、朝鮮半島を支配し、中国をも呑み込み「大東亜共栄圏」を夢見る。「五族協和」思想も天皇を頂点とする日本民族中心のいわゆる「中華思想」に過ぎなかった。東北アジア地域では、自民族中心の「中華思想」は依然として根強く存在し、それが大国主義と他民族の蔑視につながる。朝鮮民族には大国の中に挟まれて蹂躙された長い歴史があったにもかかわらず、かえって自己中心の「小中華思想」が根強く残っている。例えば、先進国の隊列に入った韓国では、出稼ぎに行った中国の朝鮮族や、留学や就職で滞在している在日もかなり差別を受けており、現在では脱北した朝鮮人も同じような境遇にあるという。
 しかし、21世紀を前後にして時代は変わりつつある。国家間、民族間の平等と共生の時代、多様化を尊重する時代になりつつある現在ではこうした「中華思想」を克服しなければならない。それでこそ「東北アジア共同体」の夢を共に見ることができる。その道のりは困難を極め実現は遙かに遠いだろうが、東北アジア時代の到来を物語る兆しはある。豆満江開発を巡って90年代初頭から東北アジア関係国が協力を試み、1999年には歴史的な日中韓3カ国首脳会合、2000年6月の南北首脳会談、日朝間では関係正常化を目指し2回の首脳会談が開かれた。
 私は東北アジア地域に生きる。それだけではない、私は国境の壁がない、多民族が共生できる社会を目指して、超国家、超民族的な人間としてこれからも生きていく。
by kklig | 2007-01-15 16:32 | 東北亜人